【真田丸】第一次上田合戦の結末は?徳川家康のボロ負け?
第一次上田合戦は天正13年に起こった真田昌幸と徳川家康との戦いです。
沼田領の明け渡しを拒否した昌幸に怒った家康は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000人の軍勢で上田城を攻撃することになります。
昌幸は弱小ながら、上杉氏の援軍を得て、これに応戦します。
上田城に怒涛のごとく攻め寄せた徳川軍は、昌幸の挑発にのり二の丸まで引きつけられ、逆に鉄砲での反撃に…。
そのうえ、城下の町屋に火を放たれ、徳川軍はパニックに陥って撤退してしまいます。
さらに、混乱して逃げ惑う徳川軍を、砥石城から出撃した信幸の軍勢や矢沢城の矢沢三十郎と上杉氏の援軍に追撃され、神川まで退却させられてしまいます。
そのとき真田軍は神川上流の堰を切り、これによって引き起こされた鉄砲水により、徳川軍は濁流にのみこまれて多くの死者を出すことになってしまいます。
徳川軍の犠牲者は約1300人に達したとのことです。
ちなみに真田軍の犠牲者は約40人だったそうです。
まさに真田昌幸の圧勝であり、徳川家康がボロ負けとなる戦となってしまったわけですね。
この後も徳川軍は応援部隊を派遣しますが、重臣の石川数正が豊臣秀吉に出奔、つまり、裏切るという事態になり、上田城からの撤退を余儀なくされてしまいます。
第一次上田合戦は徳川軍の大群をゲリラ戦法により、迎え撃ちにしてしまったということですね。
真田昌幸恐るべし!