【真田丸】真田昌幸の節操のないサバイバル戦術とは?
武田氏の滅亡後、旧武田領のうち甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、上野(群馬県)が織田信長の支配下となりました。
真田昌幸はこのとき信長の軍門にくだり、本領の一部をまかされます。
その3か月後、本能寺の変で信長が自害し49年の波乱の生涯を閉じると、上杉景勝、北条氏政、徳川家康で旧武田領を巡る争いがはじまります。
昌幸もこの機を逃すことなく、地元の国衆を取り込んでサバイバル戦術を画策しました。
まず、織田方の滝川一益の配下にいた昌幸は、神流川(かんながわ)の戦いで織田軍が敗走すると、まず上杉氏に臣従し、すぐさま北条氏に帰属します。
そして、北条氏が東信濃を平定して、徳川氏が占領している甲斐への侵攻をはじめると、昌幸は突如として北条氏を裏切って徳川氏に帰属します。
これは、北条氏が上州全土の領土化を公言していたため、吾妻・沼田領を守るための裏切りです。
ところが、まもなく徳川氏と北条氏が和睦することになります。
そのとき、信濃・甲斐は徳川の領土、上野は北条の領土と決められ、それと同時に、昌幸は主君である家康から吾妻・沼田領を北条氏に引き渡すよう命ぜられます。
納得のいかない昌幸は代替地をもらっていないことを理由に拒否し、家康に手切れを宣告して上杉氏に寝返ります。
徳川氏に応戦するために寝返った昌幸は、このとき信繁を人質として上杉氏のもとへ送ることになります。
その後一年を待たず、昌幸は豊臣秀吉に臣従したため、信繁は秀吉のもとへ人質に出されます。
このように、機を見て、次から次へと主家を鞍替えする昌幸のサバイバル戦術は、一見、節操のないようにみえますが、戦国時代のなかで真田家の血を絶えさせないためにはしょうがないことなのではないでしょうか。
必死に真田家を守らんとする真田昌幸の頑張りはすばらしいとさえ思われます。